Napの考えること

by Nap-takemura

変遷。

考えること(その40)


人にも変遷があるように、歌にも変遷がある。「恋愛」、「生と死」、「欲望」。これらは歌のテーマとしてよく扱われる。僕が初めてつくった歌は窓の外に見えるカラスの歌。シンプルだけが取り柄の未完成な歌。その後はほとんど恋愛の歌が中心。実体験というより背伸びして、かっこつけて、なんてものが多い。しかしそんな歌でも自分の心情が映し出される。それを見つけた気になる時がある。だから歌づくりはやめられない。

二十代後半からぼんやりと「生と死」をテーマに歌をつくりたいと考えた。Napの出演者もこれをテーマにした歌が最近多い気がする。時代なのかもしれない。歌の切り口は星の数ほどある。同じテーマでも考え方の違いや思想のようなものが見えてくる。これもライブのおもしろさのひとつでもある。

そして、「欲望」。僕はいまこれをテーマに歌をつくれたらと考えている。何かつくれば何か見えてくる。歌づくりの理由はいまも変わらない。解らないから歌にしてみる。答えがないから歌にする。頭では解けないことだから頭では考えない。歌はそれに応えてくれる。出来不出来は別として感性にまかせられる。子供が積み木するのと同じだ。

プロになったら好きな歌が歌えない。つくれない。誰かに指示されたくない等々。よく聞く話。僕の好きな某有名ミュージシャンはいわゆるオファーされた作品が代表作となっている。同じ例の歌にたくさん名作がある。つまり余りある才能(もちろん努力も含むけど)は対外的なプレッシャーを超えてしまうということ。そんなタフなアーティストに憧れる。同じプロでも様々だ。答えはひとつではない。自分のめざすプロになればいい。

歌は数学のように答えはひとつではない。「恋愛」、「生と死」、「欲望」に正解はない。その正解のなさに歌の魔力がある。自分の考え方、やり方、表現の仕方、そしてできれば外に向けて。エンターティメントのひとつとして客席にまるごと届けられたらと思う。それが達成できたらきっと幸せだ。つまり僕はまだ達成していないということですが・・・。
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# by Nap-takemura | 2009-11-02 09:17

声。

考えること(その39)


とにかくCDショップでは試聴しまくる。片っ端からノンジャンルで聴きまくる。気になる音は予算が許す限り購入する。こうして新しい音楽になるべくアンテナを張るようにしている。自分の曲作りの参考にもなるし時代を感じることもできる。

僕の場合、試聴の際、その良し悪しを決める最初のチェック項目が声。次に全体のサウンド処理。これで決める。そう考えると自分の声はどうなのかということに突き当たる。一時期その自分の「声」にずいぶんてこずった。いまもそうともいえるが・・・。

歌をつくるとき今度はこんな曲をつくろう、とか考える。でも実際に始めると簡単ではない。音楽に携わる方はきっと同じ経験があると思う。結局出来た歌は最初の目論見と違ってしまうことが多々ある。まあ、それでもなかなか良いではないかと思えばしめしめだ。で、ライブで歌ってみる。ちょっと違うなあ、なんて歌は再度練り直す。そうやって何度か手直しをしつつ結果自分のレパートリーに加えられたらメデタシメデタシだ。

このとき自分の持ち歌として残るものはやはり自分の声を活かせたものが多い気がする。これはあくまでシンガーソングライターとしての曲づくりでの話。作家志望であれば話はまたぜんぜん違ってくる。

個人的にはミックジャガーの声やピーターガブリエル等々の重厚な声が好み。こういうのを、「ないものねだり」というのでしょう。自分の声はどちらかといえばその反対側の方に位置すると思うので。だから余計ハスキーで渋く適度な重さを感じさせる声に魅力を覚える。

ある時期それに気づいて、自分の声を一番活かせる歌を書くしかないなと考えるようになりました。しかしこれもまたむつかしい。自分のやりたい方向性をめざし、且つ、自分の声を活かした曲づくり。それには自分をプロデュースする感覚が必要。自分の良さを客観的にみつけることのなんとむつかしいことか。その試みは今も続いている訳ですが・・・。

そしてできればヒットする歌をつくりたい。多くの人の耳に届くためにも。「YouTube」にしろ「MySpace」にアップするにせよ、まずそれが必要だと。誰しも考えていることなのでしょうが。ライブをやるからにはできるだけたくさんの人の前で演奏したいし、聴いてもらいたい。名前も知ってもらいたい。そう思うのが自然だ。

もっとクオリティを上げたい。そのための演奏力、歌の表現力、魅力があってオリジナリティ豊かな楽曲。この三つはまずはずせない。それがあればギター一本の歌だって充分心揺さぶられる。そのためにはもちろん努力も熱意もなければ到達できないわけで。その気持ちがあるうちは可能性を捨てたくない。そう思うアーティストは多い。そんなことを感じる今日この頃です。
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# by Nap-takemura | 2009-09-03 06:51

テストパターン。

考えること(その38)


時計を見ながらあることをする。なんと時間の経つことの早いことか。カレンダーも4月も半ば。もうすでに一年の三分の一が過ぎようとしているのだ。少々焦る。

ときどきTVでドキュメンタリー風の番組を見る。その主人公の大抵の人間も同じく時間に追われ(いや、追われすぎている)ている様子がよく分かる。確かに自分と違うのはその頭と体の使い方。彼らの日々は行動に重心を置いている。自分になくて彼らにあるもの。もちろんたくさんあるのだけれど。まずはその時間の使い方がすごい。すこしなら真似られるかもしれない。早速単純なぼくはひとつのテストパターンのつもりでそれに挑んでみることに。

まずは一日24時間の内の1時間を使うような気持ちで。そう考え行動に移してみる。これも物理的な問題、選択の問題なのだ。そう心に言い聞かせて。あれをやめてこれをやる。そんな感じだ。数日実行してみた。結果、目に見えて変わるものは何もないけれど気持ちが変わる。良い兆候。あとはどれだけ続けられるのかだけ。しかしそこが一番肝要であり壁でもある・・・。
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# by Nap-takemura | 2009-04-16 12:27

トライ。

考えること(その37)


どれくらいのミュージシャンが夢見ているだろう。あの憧れのステージに立ちたい、あのヒットチャートに名前を載せたい、あの音楽番組でインタビューを受けたい、あのCDショップで華やかにポスターを飾りたい、等々・・・。だけれどそれを果たせる数が物理的に決まってしまうのも確か。すべての才能あるミュージシャンがそれを得ることはできない。だから人はあとは「運」だけという。運をつかむ方式はもちろんなくそれをつかんだ人の話にも方程式はない。だから運というのだろうが・・・。しかしその夢物語に向かっている人は幸せであることもまた確か。夢があるということは目的があるということ。すくなからず意味のある日々を送っているということ。こんなことを書くとなにやら理屈っぽい文章になりそうだなあ・・・。ではちょっと横道にそれてみましょうか。

さて、Napで長い年月続けて出演しているアーティストも実は少なくない。考えてみると彼らにはひとつの共通点がある。それは常に新しい曲をつくり続けているということ。毎回新しい気持ちでライブを行っているという点だ。今日初めてNapに出演するアーティストとなんら変わりない。それは古い皮膚を脱ぎ捨てて新しい皮膚を身に付ける生き物に似ている。常に活性化されてゆく状況。これならマンネリする状態にはなるはずもない。それを才能といってもいい。続ける才能とはよくいわれるが、それは言い換えれば、才能がなければ続けられないともいえる。

しかし音楽で有名になりたい、それでいつか飯を食っていきたい、ただただそれだけを願い、音楽活動もそれだけに集約されていくとどのみち行き詰まってしまう。本人も気づかないまま音楽というものに縛られた人生にさえなる。純粋にもう音楽を楽しめない状態。それはちょっと哀しい。僕にはそんな時期があった。本当のプロのミュージシャンと自分の違いは何かと。才能なのか人間性なのか、はたまた「運」であるのだろうか等と。しかしそれ自体考えることはやはりナンセンスなのかもしれない。

ただ、先に紹介した彼らにはチャンスがあるといえる。続けられる才能があるということはプロとして必須条件のひとつだと思うから。最初は誰しもがみんなずっと音楽を続けていこう考えて始める。しかし何かしらの理由でいつしか音楽から離れてしまうことが多い。それが現実。

もし、いまライブを楽しめないと感じる時があるとしたなら、それは目的(ただプロになりたいというだけの)だけに縛られている状態なのかもしれない。だとするならそれを克服するためのやり方はたったひとつだ。自分の音楽ともう一度きちんと向き合うしかない。人を感動させる音楽を自分は創れるか。自分の表現したいかたちにできているか。そして相応の評価をもらえているか。そんなことが次へのステップになるような気がする。なんにせよトライあるのみ!
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# by Nap-takemura | 2009-03-19 06:34

お米。

考えること(その36)


いまや俳優としての名前の方がしっくりとくる「泉谷しげる」。その彼が1975年に井上陽水、よしだたくろう、小室等らと立ち上げたのがフォーライフレコード。そこの第一弾アルバムが泉谷しげるの「家族」だった。生々しいギターの音色。余計な装飾の一切を削ぎ落とした勢いのあるアレンジ。そしてなんといっても泉谷しげる独自の詩の世界。ラスト曲まで一気に聴かせてくれる。やはり邦楽の肝は歌詞だ。日本語が言語として違和感なくメロディに乗り、しかも言葉が音楽だからこそ生きてくると思わせる歌詞。母国語の音楽の強みはそこが大きい。このアルバムは基本的にはフォークだがジャンルを越えた迫力ある音がぎっしり詰まっている。どれもこれもギター一本で充分成り立つ歌ばかり。ご飯でいうところのお米のように一粒一粒が立っている。光っている。それが達成されている。だからおかずは邪魔さえしなければなんでもいいのだ。まずいはずがない。ビートルズやディランの歌がそうであるようにもう最初の数秒で持っていかれる世界。すばらしい音楽はそこらじゅうにころがっている。
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# by Nap-takemura | 2009-01-19 10:29
考えること(その35)


新しい年が明けました。今年もよろしくお願い申し上げます。皆さまは新しい年を楽しく迎えることができたでしょうか。

さて、もう早、2009年1月も中盤となりました。世の中もだんだんと通常の生活状態になりつつあります。この不確かな経済状況や政治状況を考えるとき明らかに去年と同じ気持ちではいられないとも感じます。しかし僕自身は音楽で癒される自分はこれまでどおりなんら変わりないようです。街に出ればCDショップに足を運び試聴機に耳を傾けます。これと思ったものはつい衝動買いをします。音楽雑誌も目について気になるものは手に取ります。もちろん一番リアルなものはやはりライブです。そのすべてが広い宇宙のようにどこかでつながっているのを感じます。自分も音楽を続けていこうと思ったりします。新しい歌をつくろうという気持ちにさせられます。誰かにすこしでも感動を与えられたらどんなに幸せかと考えるのです。

うまく伝えることがいつもできないのですが、音楽はたったひとり部屋で歌っても何万人もの前で歌ってもその力の大きさは変わりありません。その人個人にとっての大きさは変わらないものだと思います。そしてなによりも音楽は自分をも癒してくれます。だからどんなかたちであれ、音楽を続けられることは幸せなことです。状況が変わっても、どんなかたちであれ音楽を続けることは必要不可欠なものだと感じます。言葉にできないものを音楽で表現できたらと強く思う今日この頃です。

相変わらずまとまりのない文となりましたが今年が皆さまにとってすばらしい年となりますように! そしてまたすばらしい音楽とたくさん出会えることを心から願っております。本年もよろしくお願い申し上げます。
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# by Nap-takemura | 2009-01-13 23:37

良いお年を!

考えること(その34)


2008年最後のこの日。あと数時間で2009年。今年もたいへんお世話になりました。この仕事をしていると世の中の状況がひとつ別のところで流れている気がすることがあります。それは創造的人々が音楽というもので表現する場所にいるからでしょう。しかしひとつドアを開けて外に出ると世界はリアルにひしひしと押し迫ってきます。何を基準にするかは人それぞれですから、僕もまわりに惑わされないように、変わり続ける世の中の基準とは比べねえぞ、と自分に言いきかせています。そうしないと自分の中の軸のようなものがずれていく気がします。昨年母を失くし自分の寿命というのを考えました。人の命の重さは思った以上に重く、心は簡単には癒えないことを知りました。誰にも読めない命の長さなら一喜一憂することもなんだか馬鹿らしいなとも考えもしました。いまは足元をしっかり見ながら、だけど気持ちはずっと先を見ながらというのが楽に思えます。そして来る2009年を何年か先に振り返ったとき「自分らしく過ごした」と思える年にできたらと考えます。みなさま良いお年をお迎えください!
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# by Nap-takemura | 2008-12-31 15:52

師走のど真ん中に。

考えること(その33)


今年ほど世界経済が大きく揺れた年はないのだろう。なにせ100年に一度といわれる不況ともいわれているのだから。上半期に上昇気流に乗っていたはずの多くの企業にも軒並みリストラや倒産の文字がおどる。まことに恐ろしい時代だ。企業の大小に関わらずどの世界も厳しいのが現実で、それは日々様々な場面で感じることも多くなった。こんな時は、軒先で日だまりに抱かれまどろむ猫のように「そんなの関係ねえぜ」という態度で過ごしたいものだ。

残念ながら人間にはそんなつるつるの感情は持てないのである。自由であるということはやっかいなものだ。猫にどのように生きるかなど選択の余地はない。しかし人間だけに与えられたこの自由は選択の連続が続くことでもある。生まれ落ちた環境がどうのこうのという声も聞こえてきそうだが、そうじゃないことは多くの偉人達がすでに証明している。この選択ということをこの師走のど真ん中で今回は考えてみたい。いやもっと単純に生きるということを考えてみたい。

この世知辛く窮屈で不平等な国の様相はきっと変わっていくだろう。同じ状況をつないでいくものなどこの世にはないのだから。いまたとえば不治の病に侵されてしまった人がここにいるとする。そこでその人はもう生きる意味がないと床に伏すのか、それとも前を向き直して残りの日々を懸命に生きようとするか。このふたつの間には月と地球ほどの距離がある。

このことの大きな違いは、「希望」を持つか、持たないか。それにつきる。希望を持つということは「信じる」ということ。信じるということは生きるということ。それと同意義だと僕は思う。逆説的にいえば、信じないということは生きないと同じ。命があってもきっと生きていくのは辛いだろう。何も信じず、希望を持てない今日を生きるということはなんと空しく辛いことかと思う。何のために今日生きるのか。誰のために自分は生きているのか。誰がこの自分という存在を必要としているか。それが見えなくなる日々。その辛さは人間には耐え難いはず。

だからむしろ僕は信じる道を選びたい。希望を持つ道を歩みたい。誤解をおそれずに言うならその道を選ぶことの方が楽だと僕は思う。明確で一筆書きにできるりっぱな「希望」などというものでなくていい。もっとシンプルに「明日はきっと変わる」という希望だけで充分だ。それはただ信じること。なにも宗教的なことや哲学的な話ではなくて単純にすべては変わるのだと僕は信じたい。そうやって生きていけたらと思う。良い時も悪い時も平凡な時も過去に一度として同じ状況が続いたことなどなかったのだから。そう自分に言い聞かせている。ボブディランも歌っている。「時代は変わる」と。
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# by Nap-takemura | 2008-12-15 23:34

第3の視点。

考えること(その32)


初めて歌ったライブハウスの名前は覚えていない。だけど夢中で歌い過ぎてかすれ声になったことを覚えている。その後も何度か同じ経験をし、自分の声帯は弱いんだなと思った。曲作りのために録音した声は自然だった。声もかすれない。歌もなんだかうまい気がする。ライブで録ったテープはさんざんだった。歌もひどいがMCもひどい。二度と聴きたくないと自分が思うほどだった。このギャップは何なのか。

しばらくしてギャラをもらえる仕事が舞い込んだ。意気揚々としてその店でしばらく歌わせてもらった。心はびくびくのまま。目の前にしゃれたお客さんが座り、僕はそのすぐそばでカバーやオリジナルを歌う。やっぱり30分くらいで本来の声が失われた。自信を失くした。自分はライブアーティストには向かない。録音だけならまだ自分の世界観を表現できる。ますますそんな気持ちが強くなった。

中学の頃アキニのアナログテープ式の2チャンネルを拝借して自作曲のデモをたくさんつくった。それが音楽にますますはまるきっかけになった。コーラスを入れたりするだけで自分の世界がすばらしいものに思えた。だからライブでも自信だけは山のようにあって僕はその世界に浸りその自分だけの世界に向けて歌った。いまだから分かるけどそれは人には届かない。もちろん比較的出来の良い曲はなんとか場を補ってはいただろう。しかしライブ全体をとおしてお客さんの心にきちんと届くことは稀だったと想像する。

自分とお客さん、そしてもうひとつの視点。仮にそれを「第3の視点」と呼ぶとして。その頃にもしそれを意識できていたのなら、もっとましなライブができたと思う。自信だけが取り柄のライブ。目の前に座るお客さんを異次元に置くようなライブ。そして喉の調子も考えずただ、がむしゃらにガシガシ歌うだけ。そんな自己満足オンパレードのようなライブ。僕に欠けていたのはその、「第3の視点」だったといまは考える。いつかタイムマシーンができたら試してみたい。結果はここで発表します。乞うご期待!?
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# by Nap-takemura | 2008-10-28 08:19

小さな宇宙。

Napの考えること(その31)


ギターを抱え、ピアノの鍵盤に触れ音を奏で歌い、自分の創りだした宇宙で漂う。そんな小さな快感を知るとき人は音楽の魅力にとりつかれるのだろう。しかし、その音楽も思うようにならなくなり、初期衝動も忘れるほど情熱を失うには様々な要因が関わってくる。そんなとき解決の糸口のひとつになるものは、「自分に正直になる」ことなのかもしれない。

僕個人で言えば、未熟な演奏技術、詩のつたなさ、メロディのひ弱さ、そんなこんなを克服しようとする努力のなさ、そんなことがどんどん頭の中に積み重なってくる。まさにそういう状況が情熱を失ってきている証拠と感じるときがある。

自己表現の根っこのある一部分は「怖れ」から生まれてくるように思う。恋人を失うこと、友人を失うこと、家族を失うこと。明日の糧を失う怖れ、年を追う毎に、新しい怖れは増えてますます自分という存在の不確かさを知ることになる。そんなとき、自分のつくった歌が自分自身を救う鍵になる経験も皆さんもあるのではないだろうか。ステージで歌う音楽の存在はへたをすると自分という人間の存在より確かに感じることさえある。ちょっと言葉にするとキザないい方ですが・・・。

だから人は自己表現である絵や文章や音楽にのめり込むのだろう。その瞬間、その時間に小さな安心感を得るのかもしれない。自分という存在を意識しないまま他の存在を感じることは、虚構の世界に生きることと同じ。空に浮かぶ雲が刻々と姿カタチを変えるように僕らも一時も同じ場所にいることはできない。そんな自分の立ち位置が変われば当然に相手の視点もずれて見えてくる。そんな世の中に焦点に合わせていくことは至難の技。いやむしろありえないとさえ思う。だからこそ自己表現が生み出したものは愛しくもあり、焦点のずれないものとして自分の中に存在する。

しかし、一方でその自己表現が自分を苦しめることもある。知らず知らず本当の目的を失ったやり方をする場合に。不正直になってしまった自己表現。僕の場合でいえば、それは明らかに内に内に向かっている時。単なる自己満足の世界。それに陥っている時が多い。

最初に知った小さな快感。小さな宇宙。それを思い出すとき、いまの自分のスタンスがどの位置にあるのかを知る。これからもそうやって音楽を続けていくのか、やめてしまうのか。それは誰にも分からない。自分にも分からないし、まして他人に聞いて分かるはずもなく、自分がいつか知る道のひとつ。でもはっきりいえるのはそんな葛藤はすてきなことだ。もっと不自由で不条理で理不尽な世界はまわりにゴロゴロころがっているのだから。

結局は誰かに向けて自己表現をする、そのことこそが、「自分に正直になる」ためのリトマス試験紙の役目を果たすのではないだろうか。赤色になるのか、青色になるのか。自分の中で創ったものを一度外に放り投げ、それを自分も外から確かめる。そのことが自己表現を磨く手がかりになるのかもしれない。単なる自分だけのものから、他の視点と焦点の合う場所。それを見つけられるのかもしれない。それを達成した瞬間に立ち会えたならきっと幸福な時間を共有することになると思う。
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# by Nap-takemura | 2007-05-08 14:19